八雲神社(大町)|神奈川県鎌倉市
<トピック>
★平安時代後期に現地の疫病流行を見て、厄除けのために源義光が京都祇園社を
勧請した。
★鎌倉に4つある八雲神社の一つ。祇園信仰の神社で、明治までは“鎌倉祇園
社、”“祇園天王社”との名称であった。
★祇園祭は、中世の時代から続く夏の風物詩もとなっている。
※参拝料無料。御朱印は本堂右手の授与所にて。
■訪問記(2020年2月23日)
鎌倉さんぽ(第3回)で、鎌倉南部巡りの5寺社目に参拝。大町大路の大町四ツ角から100m東進し、左に入って50mほど。
順路は、鎌倉駅 →①延命寺 →②教恩寺 →③別願寺 →④安養院 →⑤八雲神社。
■御朱印
新羅三郎義光勧請、相州鎌倉大町鎮座。
■基本情報
御祭神:須佐之男命 ( すさのおのみこと ) 、稲田比女命 ( いなだひめのみこと ) 、八王子命 ( はちおうじのみこと ) 、佐竹氏霊 ( さたけしのみたま )
社格等:(旧社格)村社
例祭日:7月第2土曜日 神幸祭 (しんこうさい)
■ご由緒 (
神奈川県神社庁HPより)
平安朝時代永保年中(一○八三)新羅三郎義光公の勧請と伝う。
当時「後三年役」に睦奥国にて苦戦を伝えられた兄八幡太郎義家のもとに、助勢のため赴く途中鎌倉に立ちよられ、たまたまこの地に悪疫が流行し住民が難儀しているのを知り、これを救わんがため「厄除神」として霊験の聞こえた京都の祇園社を勧請し篤く祈願されたところ、たちまち悪疫退散し住民は安堵し難を救われました。
以後住民は祇園さまとあがめ深く信仰してまいりました。
室町時代足利成氏が関東管領の頃は(一四四九)当社の神興が管領屋敷に渡御し奉幣の式が行なわれたことが「鎌倉年中行事」に記されている。
戦国時代天正十四年六月(一五八六)、小田原北条氏五代氏直の時「当社の祭礼に際し不敬不礼の者は権門といえでも厳科に処す」という禁制守護状を下賜された。
徳川家康が江戸に入城されるや、五穀豊穣万民豊楽の祈請のため慶長九年三月(一六○四)当社に対し永楽五貫文の朱印地(神領)を下賜された。以後代々の徳川将軍家より朱印状が下付された。
社号は鎌倉祇園社、又は祇園天王社と称していたが、明治の御維新に際し八雲神社と改称し大町総鎮守として明治六年、村社に列格され、明治四十年四月、神饌幣帛料供進神社に昇格した。昭和二十八年七月、宗教法人に登録され神社本庁に所属し現在に及んでいる。
■訪問記録
公道から境内を望む。境内全体が公道より一段高くなっています。
一つ目の鳥居をくぐり参道を進むと左手に手水舎が現れます。
参道をさらに進むと、二つ目の鳥居のところからもう一段高くなったところに拝殿が見えてきます。
本殿の後ろには鬱蒼とした木々が控え、前には手入れされた古大木が構え、古い社は厳かな雰囲気を湛えています。
本殿の彫刻は見事で、年季の入り方も含めて見る者を圧倒します。
“本殿に向かって左側手前には御神木”と、そのたもとには、源義光が軽々と手玉に取ったという“手玉石”が置かれています。
本殿の左側には宝物館があって、自由拝観となっています。
本殿がGood Lookingなので、本殿前を横切る時に写真をもう一枚。
本
殿の右脇には三峰神社と御嶽神社があります。ハイキングコースの出入口にもなっています。
銅葺屋根の下には、小さな社が3つあります。古代から人々がいろんな願い事をするので、日本各所から勧請したんでしょうね。
厄除の幟旗で見えなかった後ろは、左から順に於岩稲荷社(祭神;田宮於岩命)、稲荷神社(祭神;宇迦之御魂神)、諏訪神社(祭神;健御名方神)です。
本殿の右側に、一段高さが下がったところにある授与所。御朱印など、丁寧に対応してくれます。
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